A VIDA EM ROSA

日本文化とポルトガル語を愛する私の部屋。

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企業と政治献金 その2

企業と政治献金を語る上で一つのターニングポイントになった有名な判例があります。
それが八幡製鉄政治献金事件(昭和45年6月24日)です。
八幡製鉄(現新日鉄)の社長が自由民主党に政治献金をしたのですが、これに対し同会社の株主が商法違反を理由に株主代表訴訟を起こした事件でした。
会社というものは定款でその事業目的を定めていますが、この目的の範囲内でのみ自然人と同様に権利義務の主体となりうるのです。
たとえば、製鉄会社であれば当然その事業設立の目的は製鉄業務になるわけです。
それなのに製鉄会社がその事業目的と全く関係ない飲食業をやり出したらどうなるでしょうか?
当然この会社に投資した株主は怒るでしょう。
株主としてはその会社の製鉄事業者としての技術力・競争力等に基づく収益力を見越して投資しているのであり、それがいきなり全く分野の違う業務を始められては「話が違う!」と言いたくなるというものです。
そんな訳であらかじめ定款で定められた目的と異なる会社の行為は「無効」と解されているのです。
本事件での株主の主張も、政治献金などというものは製鉄業を目的とする会社の定款外の行為であるから無効だ!という事にあったのです。

ところが最高裁は「政治献金も定款の目的の範囲内だ!」という結論を出したのです。
その理屈は、企業はその本来の業務に直接必要な行為に加えて、例えば慈善事業や福祉への寄付行為など社会的に役立つ行為も期待されている、だから政治献金も社会的な活動として許されるのだ!という論理でした。
つまり、慈善事業も政治献金も社会的には同じようなものだ!と言ったのです。
これには当時の有識者達は驚きました。

さらにこの事件では商法違反に加え、憲法違反ではないか?との争点もありました。
それは、そもそも会社に政治献金のような「政治活動の自由」という権利があるのか?という問題です。
これはつまりは「法人の人権保障の範囲はどのくらいまで認められるのか?」という大きな問題でもありました。
この点について最高裁は「会社も自然人である国民と同様に政治資金の寄付を含めて、政治的行為をなす自由を有する」と断言したのです。

この判決によって企業献金は最高裁によって「お墨付き」を与えられたのです。
もちろん、これ以降企業から自民党への政治献金は増加の一途をたどることになります。
この判決に対しては憲法学者・商法学者達はこぞって批判しましたが、時は高度経済成長期そしてあの安保闘争華やかな時代です。そしてもちろん東西冷戦のまっただ中。
時の権力者達は三権は対立している場合ではなく、一丸となって強固な自由主義体制を築かなれば!と思っていたのでしょう。
余談ですが、この判例を正面から問うような設問が後に司法試験の論文試験で出題された事がありました。
これは一部で「司法試験界の踏み絵では?」などと囁かれたとも言われています。
第一線級の法学者達がこぞって批判しているこの判例とはいえ、仮にも実務家を志す司法試験受験生が最高裁の判断を堂々と答案の上で批判出来るでしょうか?

この判決からすでに40年近く経つにもかかわらず企業と政治のカネに関する癒着はなくなる気配がありません。
もちろん現代では「会社」という組織の考え方も変わりつつあります。
従来は、会社の主役は経営者であり株主は二の次、それゆえ取締役の専横をいかに防ぐか?という視点から商法の改正が進められて来たの対し、最近は多発するM&Aの結果、経営者が投機家によって使い捨てにされる状況すら生まれているのです。
そして、この状況によって現代では違った視点からの政治献金をめぐる問題が生じているのです。
それこそが、私がここで最も書きたかった主題なのです。

すなわち06年の政治資金法改正によって認められた外資系企業による政治献金です。
我が国の有識者達は皆外国人の参政権付与に猛反対しています。
しかしこの外資系企業の政治献金を騒ぐ人はあまりいないのです。
国民主権原理に抵触するという理由で、外国人の参政権を否定しておきながら、なぜそれより国政上遙かに大きな影響力を持つであろう外国企業の政治献金に対する門戸を開こうとするのでしょうか?
経団連の会長はどこの会社の人でしょうか?
そして例年、経団連から多額の政治献金を受けているのは?
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企業と政治献金 その1

西松建設の違法献金事件について皆さんはどう思いますか?
そもそも政治資金規正法などというものがザル法に過ぎないという事は以前から周知だった訳ですから、今回の事件そのものに関しては「何を今更」というのが大方の意見ではないか?と思うのです。
色々な報道や見解が取りざたされていますが、普通のバランス感覚で考えれば「国策捜査」であると思うのが常識というものです。

それはともかく巷で賑わう枝葉の議論など私にはどうでも良いのです。
もう少し本質的にこの問題を探ってみたいのです!
ただし、書き込みがあまりにも長くなってしまいそうなので、今回と次回の二度に分けて企業と政治献金の問題を取り上げてみたいと思います。
すこし堅苦しい話しで恐縮ですが、それだけ大切なテーマだと思いますし.....

「55年体制」が終焉する切っ掛けとなったのは金丸事件でした。
事件の重大さにもかかわらず当初政治資金規正法違反としてたった20万円の罰金刑!として処理されたこの事件に対しては多くの国民が怒り心頭に発したのでしたね。
その後あの細川連立政権が誕生。「政治改革」の名の下に、中選挙区制から小選挙区制への移行、そして企業献金の受け皿を政党または政治資金団体に限定する反面、政党助成金制度が導入されていったのでした。
ここで大切なポイントが一つあります。
当時、細川首相は「企業・団体献金は将来的に廃止」するつもりでいたのです。

この方向性には私を含め多くの国民が期待をしていたのです。
個人献金は良くてなぜ企業献金・団体献金がいけないのか?
こうした素朴な疑問はあまり取り上げる人がいませんが、重要な問題なのです。
少しばかり遠回りしますが、最後までお付き合いください。

民主主義が正常に機能するためには当然国民が政治思想的に自律していなければなりません。
そしてそのためにも国民には「政治活動の自由」が保障されていなければならないのです。
そして政治活動の自由の内容としては、政治思想、政治言論、その他様々な政治に関わる活動があるわけですが、その一貫として政治献金も認めざるを得ないのですね。
例えば、私が老人福祉のより一層の充実を求める人間だったとします。
仮に老人福祉活動に熱心な政党があれば、当然私はこの政党を支援したくなるでしょう。
そしてもし私がそれなりのお金持ちだったら、この政党に献金をし老人福祉に役立つ政策に役立てて欲しい!と思うのが当然ですよね。
確かに政策を金で買うような印象もありますが、資本主義+民主主義社会ではこうした行為は決して不健全なものでは無い筈です。

ではなぜ団体献金はダメなのか?
それは一言で言うと個人の政治活動を阻害するから、という事になるのでしょう。
団体(あくまで法的に意味のあるものに限ります)というものは当然ながら何らかの目的を持って構成されているものです。
例えばその団体が特定の政党を支援する目的で結成されたものであったとしたら、別に政治献金をしたとしても問題はないでしょう。
しかし、本来そのような政治目的とは全く関係なく結成された団体(例えば会社など)が、政治献金を行ったらどうなるか?
たまたまその団体と同じ政治思想を持った構成員であれば問題ないでしょうが、そうでない場合、その構成員の政治信条と反する結果となります。
私もサラリーマンの一人ですが、もし会社から「お前も○○党を支持しなさい!」などと強要されたら流石に困ってしまいます。もちろん、そうした強要を私が突っぱね、その結果不利益な処分を受けた場合には憲法違反を理由とした民事訴訟を提起することは可能ですが、そんな事をしたところで事実上被る様々な不利益を取り返す事は出来ないのはよくお分かりかと思います。

さて、長くなったので今日はこれくらいで終わりにします。
次回は法人の人権と個人の人権の優劣関係について多くの疑問を投げかけた一つの判例を紹介して、団体の政治献金についてさらに深く考えてみたいと思います。

ではまた。

オウム事件を風化させないヒント

あの忌まわしき地下鉄サリン事件からもう14年経ちました。
一つのカルト宗教集団があまりにも身勝手な理由で引き起こした事件。
事件を風化させてはならないとの想いは多くの日本人に共通するものでしょうが、この事件から14年を経た今、日本国民の精神性は少しは向上しているのでしょうか?
もちろん、私がここで言う「精神性」とは何も高尚な考えを持つ事ではありません。
スピリチュアルなものに対する成熟度の事を言っているのです。

残念ながらあの当時から我々日本人は少しも向上していないのではないでしょうか?
テレビでは未だに前世云々というデタラメを説くインチキ占い師や質の低いタレントがまかり通り、スピリチュアルという意味を不当に曲解しつづけているではありませんか。
ましてやフランスあたりが「カルト」と断定している一宗教団体が堂々と政権の一翼を担っているという現状を鑑みるとき、日本国民の幼稚さはあの当時から少しも進化していなのだと思わざるを得ません。

今日はオウム事件を考えるときに実に参考になるこの一冊の書籍を紹介したいと思います。
トンデモ ノストラダムス本の世界トンデモ ノストラダムス本の世界
(1998/07)
山本 弘

商品詳細を見る

と学会会長 山本弘による名著です!

「ノストラダムス」という名は成人であれば知らない人はいないでしょう。
しかしながら、私のような読書マニアでもない限り日本で出版されたノストラダムス本の多くは意外なほど知られていないのです。
そして、その多くが五島勉の「ノストラダムスの大予言」(祥伝社)の影響を受けて書かれたものであり、自ら「ノストラダムス研究家」と名乗る著者の多くはその実「五島勉版ノストラダムス」というフィクションを骨格にして来たのです。
どうしてそんなものを根拠に我々は「1999年に人類は滅びる!」という風説に畏怖したのでしょうか?
本書を読み進める事でその答えに対する大きなヒントが明らかになっていくのです。

コミカルな雰囲気の表紙からも分かるように、本書は巷に出回ったあまたのノストラダムス本をジョーク混じりに斬り捨てる論評本なのですが、中には非常に衝撃的な記述も見られます。
それが、五島氏が「大予言」シリーズを書かなかったら地下鉄サリン事件はなかった!との一節です。
しかし、流石にこれは言い過ぎでしょう。
確かに両者の間に条件関係は認められるでしょうが、この論法は一つの結果から過去の事実を遡って当てはめる陰謀論者特有の「因果関係逆転の手法」と同じになってしまいます。
むろん、山本氏はその辺の理屈は百も承知の上で、この世の出来事がバタフライ効果に支配される以上未来の予測など不可能なのだ!というテーゼを説明するための方便としてこのような過激な比喩をしているわけですが.........

いずれにせよ、仏教をベースにしたオウム真理教が本来仏教にはないキリスト教的ハルマゲドン思想を持つに至った原型が「ノストラダムスの大予言」にあったことは疑いない事実で、この事は突き詰めると過去に、多神教である筈の神道が時の為政者によって一神教化されてしまった事実と重なるのです。
我々日本人は常にそうした危険性を意識していなくてはいけないのでは?

ロッキー・ザ・ファイナル.....メモリアル

今更この映画の感想書いている人間はおそらく私だけでしょうね。
でも、この映画には私にとって人生の大切なヒントが沢山あるのですよ。

DSCN0793.jpg
まずは、今は亡きエイドリアンとかつて過ごした想い出の場所を義兄ポーリーと共に訪れるシーン。
彼女と過ごしたあの日々をポーリーに語りつづけるロッキー。
ポーリーは言う、、「過去なんか忘れちまえ!過去なんてろくなもんじゃない!!」
確かにポーリーにとってはそうなのだろう。
しかし、ロッキーには過去も現在もないのだ。
その時を真剣に生き、誰かを本気で愛した者だけに神は時の流れを止めるのだから......
エイドリアンは彼にとって永遠であるが故に彼女を失った辛さも消える事がない。
しかし、私は思うのだ。
情熱さえ忘れなければ何時の日かその心に再び光が差す。
人生を諦めないとはつまりそういうことだ。


DSCN0806.jpg
ボクサーとして再起を決意したロッキーだが案の定コミッショナーは許可を出さない。
理由は人道的見地つまりは「年齢」だ。
「自ら戦い欲しい物を得ようとする人間を邪魔する権利は誰にも無いはずだ......夢を追い続ける権利が人に認められているんだったら、そいつの心意気を尊重し励ますのが仕事だろう」
心が震えるセリフだ。
誰もが若者に対しては偉そうに夢を持てと言う。
しかし、ある程度歳を重ねた人に対してはだれもそんなことは言わない。
夢を追うことに適齢期なんてない筈なのに.....


DSCN0810.jpg
個人的に一番好きな場面。
それまで控えめな態度に徹していたリトル・マリーがロッキーを勇気づける場面だ。
いい女とは男を良い意味で奮い立たせてくれる女の事だ。
男っていうのは皆小心者だからいつだって迷いを持っている。
「あなたが心から闘うことを望んでいて、また、闘うべき試合なら闘いなさい」
「闘うのがボクサー!」

この辺りから彼女はロッキーにとってかけがえのない存在へと変わっていく。
失ってしまった人を取り戻すことはかなわない。
しかし、ひたむきに努力を続ける魅力的な人間を誰かが放ってはおかない。
愛は一つのものではないのだから......


DSCN0813.jpg
このシーンも本当に素晴らしい!
一流企業に就職しながらも空虚な毎日を送る息子ロバート。
再びリングに上がる決意をした偉大な父をなじる息子に対しロッキーはこう諭すのだ。
「お前は期待通りに育ってくれた......だがそのうちどこかでお前は変わってしまった。人に面と向かって馬鹿にされても平気な人間に成り下がった。困難にぶつかる度に自分のふがいなさを父さんの影のせいにした。だが、お前にも分かっている筈だ.......」
「世の中はバラ色ばかりじゃない。人生はどんなパンチよりも重くお前を打ちのめす。だがどんなに打ちのめされようと休まず前に進み続けろ!ひたすら苦痛に耐え続けるんだ!その先に勝利がある!..........自分を信じて生きろ、でなきゃ人生でなくなる....」


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試合前日の夜、ロッキーの元にエイドリアンの写真を届けるマリー。
「心だけは歳を取らない事を証明してみせて。あなたならできる。」
ここで世の男性諸君に言っておきましょう。
女性からキスをしたくなるような男になりなさい!

DSCN0834.jpg
ボクシングのリング上は人生の縮図だ。
高揚感と苦痛の繰り返し。そして後者の時間の方が圧倒的に長い。
立ち上がってもまた苦痛が再び訪れる。
しかし、それでも......Get up!

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ついに最終ラウンドまで闘い抜いたロッキー!
正直、この映画を熱く語る度に人から馬鹿にされる私なのですが(汗)、私に言わせればこのシーンを観て胸があつくならないような男は男じゃない!のです。
試合結果の判定を待たずにロッキーはリングを去っていきます。
「帰ろうぜ!」
そう、彼には勝ち負けなどどうでも良いのです。
本当カッコイイ!!!!!!!

DSCN0845.jpg


私は時々人間というものがとても愚かに感じる瞬間があります。
例えば時間...........
我々はどうしてもこうもこんなつまらないものに縛られているのでしょうか?
たかが数十年という宇宙の中ではほんの一瞬に過ぎない時間の経過で一体人間の何が変わるというのでしょうか?
私も結構な年齢になったせいか最近人から色々諭される事があります。
しかし、なぜ年齢ごときで自らの理想を失い妥協を甘受しなければならないのでしょうか?
才能を言い訳にして、環境を言い訳にして、そして年齢を言い訳にして努力を怠る人間から私が学ぶものは何もないのです。

ふぅ~今夜は熱く語りすぎたカカセオでした^^

あの人はもう想い出だけど.....

先日誕生日を終えたカカセオです
全然嬉しくないですわ
なにせ、誕生日当日は夜10時過ぎまで仕事してましたし、帰っても誰が祝ってくれるでもないので酒飲んですぐ寝てしまいました。

何?可愛そう?

いえいえ、全然そんなことはありません。
私は昔から一人で過ごす事が好きなのです。
いや、私だけでなく男というものはいくつになっても孤独を愛する旅人なのです。

そんな訳で稀代の名曲The Galaxy Express 999で今日はお別れです。
最近EXILEとかいうグループがリメイク版をリリースしていますが、あんなもの全然ダメですね。
最近の日本人はどうしてああいうフニャフニャした歌が好きなのでしょうか?
やっぱりコレが最高!



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プロフィール

カカセオ

Author:カカセオ
年齢・性別不詳。
使用する言語は日本語・ポルトガル語。
「美しい人生とは?」を常に追い求めています........
歴史の話、語学の話が大好きです。

銀河英雄伝説名言録



present by 田中芳樹:徳間書店「銀河英雄伝説」

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